池田晶子「見られて死にたい」
何事によらず「原典」を確認することは重要だと改めて思った。
引用されている部分だけを読んでいると、筆者の論旨が正確には把握できないことも多い。
池田晶子のこのコラムも、引用では分からなかったことがいくつかあって、同感できるところも、やはりどうしようもないところも、両方があった。
勝谷誠彦が《ちなみにこの女は奥山君の著作一つも読んでいないね。》と書いていたが、このコラムはテレビ番組を見ての記事なので、こんな批判には意味がない。
批判するなら著作を読んでからにしろ、と言いたい気持ちは分からないではないが、そんなことを言い出すと、おいそれと他人のことについて自分の意見を言うこともできなくなる。
私も、池田のこのコラムを駄文だと思うし、およそ哲学者の文章とは思えない程度の低いものだと思うが、それは奥山貴宏という人物をどう評価しているか、というレベルの問題とは別のことだ。
人は、自分の好きな人物を貶(けな)されり、大切にしているものを悪く言われたりすると、しばしば感情的になり、ヒステリックに反応しがちなものであるが、そういう反応は池田の反応と同レベルのもので、自戒しなければなるまい。
まず、この池田のコラムのなかで、唯一私も同感できた部分をあげる。
それは、テレビ番組の中で私も感じていたことなのだが、奥山に対する読者からの書き込みやメールである。
《「カッコイイッすよ」「応援してマース」といった、妙に馴れ馴れしくも底の浅いネット言葉で、大量の反応が即座に返ってくる。》
この感覚は、池田ほどネットに悪意はもっていない私にも、よく分かる。
よく分かるが、それはジェネレーション・ギャップとでも呼ぶようなもので、どちらが正しいという問題ではないから、「自分が正しい」と言わんばかりの池田の書きぶりは、やはり哲学者らしいとはいえまい。
奥山の3冊の本について書いたように、私は奥山に大した若者だという人間的な敬意を抱いているが、批判的なところがないわけではない。
だが、池田の奥山に対する批判は、哲学的なレベルで水準が低すぎると思う。
まず、人間が「死」に直面するとはどういうことか、池田には想像力が欠如していて、およそ哲学者の文章とは思えない。
例えば、《個人のあられもない内面を、得体も知れない誰かに向けて吐露したいというその心性が、理解できない。気持ちが悪い。》と書いた後で、こう結論している。
《そういう個人の大事なことは、他人に報告するより先に、自分で考えるべきことではなかろうか。
番組で観る限り、案の定、そういう内省的な言葉は一言も語られていなかった。…》
池田にとって「死」に直面するということは、《内省的な言葉》で《自分で考えるべきこと》であって、それ以外はない、ということのようだ。
自分にとってそうであるとか、自分がそうしたいからといって、他人もそうすべきだというのは強引すぎよう。
《死ぬということは、人が本質的にものを考え始める絶好のチャンスなのである。》
という池田の言いっぶりも、大きなお世話だという他ない。池田が死ぬときに、どれくらいその「絶好のチャンス」を生かすことになるのか、みものである。
(また改めて取り上げるかもしれないが、池田の本を1冊買ってきて読んでいるのだが、こういう「説教臭い」書き方がお好きらしく、もしかすると、これが「哲学的」だと思い込んでいるのかもしれない。)
こういう一節もある。
《この世代の人々にとっては、人に認められる、人に注目されるということが、唯一の自己証明なのだ。そうでなければ、自分が自分であるこということを認識できないのだ。(…中略…)つまり、死んで後、忘れられることを恐れるとは、自分自身であったことがないということの、まぎれもない証拠なのである。》
後半は論旨不明であるが、前半は「そりゃ、アンタのことでしょ ?」とツッコミたくなる。
「死んだらきれいサッパリと忘れちゃって下さい」という人もいるだろうが、多くの人々は「自分が生きていた証しを残したい。できれば忘れないでいて欲しい」と思っているのではないか。
人は「死体」になった時に「死ぬ」のではなくて、「記憶」している人が誰もいなくなったときに「死ぬ」のだと、多くの哲学者が言っているではないか。
《人間の実存のある種の変質を見たように思う。独りで普通に死ぬことができない人類の出現である。》
「実存」という哲学用語を使えば哲学的に見えると思っているのだろうか。
古今東西、人間の「死に方」に大した変化も進歩もない。
多くの人々の死を看取り『死ぬ瞬間』という本を書いたキューブラー・ロスも、自分が死ぬ時は、「ジタバタと見苦しくワガママに死んでいいんだよ」という「死に方」を実践し、テレビカメラの前でもそう語っていた。
「どう死ぬか」は、自分の「死に方」で示せば済むことで、「他人の死」にお節介な説教を垂れる必要はない。
「死」に直面して、いろいろな形で「自己表現」した詩人や作家がたくさんいることを池田は知らないのだろうか。
闘病が中心となっている人で思いつくまま上げても、正岡子規がそうだし、高見順の『死の淵より』という詩集もガンに冒された病床の作品であるし、昨日が命日だった江國滋の『おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒──江国滋闘病日記』という闘病日記も、俳句の作品も、一級のものだと思う。
他にもたくさんいる作家たちの「最期」も、池田に言わせれば《そういう個人の大事なことは、他人に報告するより先に、自分で考えるべきこと》で終わるのか。
奥山貴宏にとっての「自己表現」が、ウェブ日記やブログやビデオであることに何の不思議があろうか。
《パソコンに向かって内省するなどどだい無理に決まっているのである。》
と池田は結んでいるが、よほど「内省」がお好きらしい。
キーボードで「書く」のと、筆記具で「書く」のと何が・どう違うのか、については私も関心を持っているが(2005年3月24日号「石川九楊『「書く」ということ』)、池田が結論づけるほど単純な問題でないことだけは確かである。
【関連記事】
2005年8月23日号「『夕日の癌マン』」
2005年8月6日号「奥山貴宏『33歳ガン漂流 Last exit(ラスト・イグジット)』」
2005年8月5日号「奥山貴宏『32歳ガン漂流 Evolution(エヴォリューション)』」
2005年8月1日号「奥山貴宏『31歳ガン漂流』」
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コメント
こんばんは。
早速拝見しに伺いました。
読み応えのある内容、じっくり何度も読ませていただきました。
そして、自分の書いたエントリーについて、ちょっと反省です。「池田さんはヒステリックだ!」とヒステリック書いているなと(笑。
私も一冊ぐらい池田女史の本を読んでおこうかと本屋さんを巡ったのですが、一冊も発見できず、市の図書館にあることを知ったので避暑がてら読みに行ってみようと思っています。
KAZEさんの今回の文章は、私には具体的に指摘することのできなかった池田女史の独善的な考え方を
とても具体的に指摘なさっていて、胸がすっとする思いです。
今回の件について書かれてあるブログ・日記等色々読みましたが
一番読み応えがあり心に響きました。
何度も読み返したくなる。そういう内容でした。
奥山さんのブログにトラックバックなさっていらっしゃらないのが、勿体なく残念です。
投稿: ショコラ* | 2005年8月11日 21:01
ショコラ*さん、コメント有り難うございました。
早速お訪ねいただき感謝しています。
「哲学的」に批判したつもりですが、果たしてそうなっているかどうか…。
奥山さんのブログにもTBさせていただくことにします。
投稿: KAZE | 2005年8月11日 23:09
トラバ頂きましたので、早速拝読に上がりました!
私は池田さんのことを今回初めて知ったので、KAZEさんの意見、とても面白く読みました。モヤモヤしてたものが少し晴れた気分です。ありがとうございました。
KAZEさんは『テレビ番組を見ての記事なので、こんな批判には意味がない・・・』と仰りますが、やはり、ある程度有名な人が、最大手の週刊誌の連載記事に、一個人を批判する記事として取り上げるのだから、
配慮と言うか、もう少し掘り下げて意見をすべきだと私は思いました。
彼女がどう思うかは彼女の自由だし、奥山さんの生き方(死に方)に嫌悪感を抱く人がいるのも当然だと思いますが、彼女のやり方は私は嫌いだし、読者をバカにした書き方に、私は直接の怒りを覚えました。
ブログ上のコメント(返答)は、慣れない人には違和感がありますよね。
でもKAZEさんも仰るとおり、どちらが正しいっていうものではないですよね。
新しい媒体・方法を認めないことが彼女のポリシーなんでしょうかねえ?謎です・・・。
私も彼女の本が読みたくなってきました。でも、今は冷静に読めず、揚げ足取りながら読んじゃいそうだから、しばらく保留かな?
投稿: りす | 2005年8月12日 00:21
初めまして。トラックバック経由できました。自分は人より少々読解力に欠ける部分があるので、今回の雑誌と本3冊を各2回ずつ読んで、何とか理解しようと努めてみたのですが、あまりにも深いテーマなので「何が正しくて何が間違っているのか?」が、とうとうわかりませんでした。どこまでを信用するべきか?どこを疑うのか?批判なり評価するのか?等。
何とか自分なりの意見をブログに載せたものの、これが正しいのかは各々にまかせるしかないのか・・・今現在の実情であります。
投稿: 47418 | 2005年8月12日 01:36
りすさん>
コメント有り難うございました。
大手週刊誌に書く責任については同感です。「本を読んでいないと批判できない」ということになると、私の池田晶子への批判もできなくなりますので、こんな書き方になったのです。
一つの「コラム」についての意見ですので、書き手のトータルな考え方については批判できないと思います。
本屋で1冊だけあった池田晶子『メタフィジカル・パンチ』というのを読みかけているのですが、悪文の標本みたいな本です。
47418さん>
コメント有り難うございました。
ブログも拝読しました。とても丁寧に論じておられますね。
一人一人が借り物でない言葉で語ることは、とても大事なことだと私も思います。
投稿: KAZE | 2005年8月13日 17:51
トラバさせていただきました。
この件に関して大勢の人が意見のやり取りをして
奥山さんの存在をクローズアップさせる事になり
結果、良かったのかなと思いました。
考える、意見を持つ、発言する、という行為のひとつひとつが
各々の存在証明だし意義でもあるだろうし...。
投稿: chikaka | 2005年8月14日 00:10
chikakaさん>
コメント有り難うございました。
私もそう思います。
ダブっていたコメント、こちらで削除しましたので、ご了承下さい。
投稿: KAZE | 2005年8月14日 10:19
池田晶子さん、亡くなりましたね。
自分自身、彼女のよい読者とはとても言えない位置に立っていましたが、
「見られて死にたい」とはとても思えないこともありまして、
上記の記事も、もしかしたら既に御自身の死期を意識して書かれてたのかと思うと、
騒がず慌てずふっと消えたその死に際には、一種敬意を覚えました。
KAZEさんはどうお考えでしょうか?
投稿: 偶然の旅人 | 2007年3月 3日 05:00
わたしは池田晶子さんのファンでした。
投稿: 夢 | 2007年3月 5日 00:50
皆様、はじめまして。通りすがりのものです。
池田晶子さんに興味があるのでしたら死刑囚・陸田真志との往復書簡を収録した「死と生きる」をお薦めします。
彼女に対する皆さんの疑問が少しは晴れるかもしれません。
是非読んでみて下さい。
また、池田さんの書かれた文章を読んで意味の分からない部分などがありましたら、私に分かる範囲でお答えします。
投稿: ななな | 2007年3月 7日 22:46
人の死とは
人は「死体」になった時に「死ぬ」のではなくて、「記憶」している人が誰もいなくなった時に「死ぬ」という説には、確かに一理ある。
文筆家の死は、その著書を誰も読まなくなった時に訪れる。科学者の死は、その発見や発明について、他人がもはや語らなくなった時に訪れる。しかしながら、多くの文筆家や科学者は、死ぬ前に「生きる」チャンスさえ与えられていない。
(故)池田晶子は、私にとって実存したことがない(海外に長らく住む私自身の「無知」からだろう)。同じ年(46才)で癌死した(私の知人である)千葉あつ子は、我々の心の中で、今でも活き活きと生きている。
投稿: Heidi | 2007年3月16日 00:22
偶然の旅人さん> 夢さん> なななさん> Heidiさん>
コメント有り難うございました。
マシン・クラッシュのため、お礼申し上げるのも遅くなってしまいました。
申し訳ありません。
お答えになっているかどうか分かりませんが、3月18日号に、私の感想を書きました。
お読みいただければ幸いです。
今後ともどうぞヨロシク。
投稿: KAZE | 2007年3月18日 17:05
池田さんのことはよく知っているけど、奥山さんのことは知らなかった。
こう示すだけでも、「知られなかったら死んでいる」というのは当てはまらないと思います。
そうじゃなかったらすごい数の人が私にとって死んでるし。
死っていうのはどこまでも自分の体験なんです。
他人が死ぬところを見ても、自分が死ぬときの感じが分かるわけでもなし。
この辺のことが分からないと、「自覚的に生きている」という自体からほど遠いのだと思います。
「哲学的」という言い方からすれば、池田さんの生き方の方がどう見ても哲学的だと思いますし。
確かに「人間自身」のコラム No.113は、突っ込もうと思えば突っ込める書き方でしたが、
どうでもいい他人の生き方に、あえて一言挙げている氏の優しさにも、思いを為してあげてください。
お二人のご冥福をお祈り致します。
投稿: qeb | 2007年3月22日 23:49
「ご冥福をお祈りします。」ということは、あなたは死後の世界を信じているのですか?それとも飾りで言っているのですか?
投稿: ナッツ | 2007年5月21日 17:12
Heidiさま
千葉敦子さんのことですが、今でも出版社に在庫がある著作は3冊程度のようです。私も千葉さんの著作には感銘を受け、手元に6冊ほど残していますが、2007年現在の一般論として「我々の心の中で、今でも活き活きと生きている」と言えるかどうかは、はなはだ疑問です。若い世代だと、名前も聞いたことのない方がほとんどではないでしょうか。
投稿: taretare | 2007年8月19日 08:09