1994年2月28日 愛新覚羅溥傑、死す。(享年86)
清朝王室の姓「愛新覚羅」(あいしんかくら)という奇妙な苗字は、建国者ヌルハチがつくったものだと事典にはあった。
満州語「アイシンギョロ」の漢字表記で、「アイシン aisin」は「金」、「ギョロ gioro」は「由緒ある家柄」を意味するものらしい。
映画でもよく知られているようにラストエンペラー溥儀は2歳で即位し、辛亥革命で退位するまで4年間の在位だったが、28歳のとき関東軍に担ぎ出されて「満州国」の執政から皇帝となった。
写真や映像でみると兄溥儀は長身痩躯であるが、弟の溥傑はどちらかといえば小柄である。
兄弟は「帝政復活」が夢で、そのためには軍事力が不可欠だと考えていたらしく、弟溥傑は学習院に留学し、陸軍士官学校に入学し、陸軍大学校にも入学して、軍人としての道を進んでいた。
「満州国」歩兵中尉だったころ溥傑に結婚の話がでてくる。
結婚相手は旧華族嵯峨侯爵家長女の嵯峨浩(ひろ)で、関東軍元司令官が仲人による政略結婚だったが、お互いに見合いの席で気に入ったと回顧しており、実際、数奇な運命にもてあそばれながら終生愛し合った夫婦のようだった。
二人が結婚するときから、溥儀と関東軍との間には「密約」があり、溥儀に男子の子が産まれなければ、日本の天皇が選ぶ、つまりは弟溥傑の息子を即位させる、ということになっていたらしい。(どこかの国の「お世継ぎ」騒動を思い出させる)
溥儀は子どもができない身体だったらしく、それを承知で弟を日本人と結婚させ、男児を世継ぎとして「五族協和」のタテマエの下、「満州国」への支配を強化することが関東軍の狙いだった。
結婚した弟夫婦がやってきたとき、溥儀は浩を「日本のスパイ」と疑い、既に身重であった彼女が男児を出産することを恐れていたという。
1938年に産まれてきた子どもが女の子(彗生/エイセイ)であり、2年後の1940年に産まれた二人目も女の子(?生/コセイ)だったので、溥儀は安心するとともに、姪たちを大変に可愛がったという。(コセイさんの「コ」の文字は機種依存文字らしく、たぶん表示されないと思うので、失礼ながらカタカナで表記させていただく)
1945年8月9日のソ連軍の侵攻で、関東軍は27万人の民間人を置き去りにしたばかりか、溥儀たち愛新覚羅一族と臣下に脱出を命じ、捕まりそうになったときは「自決せよ」と命じたらしい。
日本に亡命すべく溥儀や溥傑らの乗った飛行機は奉天に着陸し、ソ連軍に拘束されてハバロフスクへ連行される。
浩と娘たちは八路軍(中国共産党軍=現在の、人民解放軍)に拘束され、「通化事件」に巻き込まれる。
浩と娘たちが流れ弾にあたらないようにフトンをかぶせ、その上に折り重なって兵士たちが死んでいたという。
零下30度にもなる極寒の地を2000kmにも及ぶ移動を強いられることになるが、命からがら日本への船に乗ることができる。
1949年に中華人民共和国が成立し、ソ連に抑留されていた「戦犯」の中から、溥儀や溥傑など「満州国」の要人たちは中国へ送還される。
溥傑たちが収容されていた「撫順(フーシュン)戦犯管理所」にいた1000人ほどの日本人は、1964年までに全員が帰国していくことになり、浩たち家族に溥傑が収容されていることが伝わる。
父との文通許可を周恩来首相に直訴した姉の彗生が、19歳で学習院大学の同級生とピストル心中をしたという衝撃的な事件のことも、この番組で初めて知ったのだが、父親溥傑が自分を責める手紙の文面は哀切だった。
溥傑は1960年に特赦で釈放され、翌年姉の遺骨を抱いた妹と母は父の住む中国へと渡る。
母浩は、すでに夫溥傑と共に中国の土になることを決意していたという。
母を残してコセイは日本に帰国し、その母浩は1982年に病に倒れ、5年間の闘病のすえ1987年に73歳の生涯を閉じる。
溥傑は書家としても名をなし、中国と日本の友好の架け橋としてその後6回来日している。
そして1994年2月28日、娘に看取られながら86年の数奇と波乱に満ちた生涯を閉じた。
| 固定リンク











コメント