内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(5)霊性と共振現象
悩みというのはパーソナルなもので一般性はない。個人対個人のものであるカウンセリングを、テレビで公開することは、何十万、何百万もの視聴者が見るので、「自分に言われている」と受け取る人がいる。その甚大な影響は、ほとんど犯罪といっていいほどの危険性がある、と内田さんは言う。
不安神経症で休学中だったある学生が、あるテレビ番組を見たことがきっかけになって、行ったこともない東京の団地まで行って、テレビではぼかされていて分からないはずのその団地の「その棟」まで一直線に行って、そこから飛び降りて自殺したことがあった。
普段ではありえないような精神状態でなければ、その番組さえ見ていなければ、自殺しかなったかもしれない。
釈さんの檀家のなかに、月命日ごとに仏壇の置き場所を変える人がいた。
日頃あれこれ相談に乗ってもらっている「拝み屋さん」に、事故で亡くなった子どもの霊が「苦しんでいる」「迷っている」と言われたことに固着してしまっているのだという。
制度宗教には、いくつかのストッパーがあるのだけれど、民間宗教によっては鼻面を引きずり回される人はいる。
霊性には、固有の振動数のようなものがあり、音叉のように共振現象を起こすことがある。
普段の自分のなかに、何か素晴らしいものと出会って魂が震えるような「良い共振の経験」がないと、自分にとっての「イヤな共振」「有害なもの」に気づいたり避けたりすることができない、と内田さん。
そうすると、「有害なもの」に共振しないようにガードを固くすることになる。
クールになろうとする。つまり「共振」そのものを避けるようとする。ここに弱さが生まれる。
過剰な科学主義は、科学で説明できないものに出会うともろい。パニックに陥ってしまって、一気におかしくなってしまう。
学校教育でも、「説明できること」もあれば「説明できないこと」もあることを教えていかないと、免疫力の低い子どもたちを生み出してしまい、有害だけど強力な波動を持つものにやられてしまう。
かのカルト宗教の広報部長か何かだった「ああ言えば…」のJさんが、導師と自分との魂の共振体験が理解できないほどの衝撃だった、と言っていた。
教祖は恐らく波動の強い人だったのだろうが、問題はむしろJさんのほうに魂が震える経験をしたことがなかったことのほうにある、と内田さんはいう。
子どものときから、自分が壊れてしまうほどのものが入り込んでくる、それも暖かい何かが入り込んでくるような体験を持っていれば、邪悪なものが入り込んでくるときには、それが分かる。
宗教が個人化し、道具化し、無地域化して、土俗的なもの、地域性が失われているのではないか、と釈さんはいう。
日本の「神」体験は地域性であり、「客」だというたとえ話はこうだ。
子どものころ、家に帰ると玄関に知らない人の靴があるのを見つけると、いったい誰だろうとウキウキ嬉しくなるのだが、しばらくすると、いつものように寝転がったりできないので「早く帰ってくれないかな」という居心地の悪さも感じ始める、というのだ。
そういう地域性は、日本だけでなく、アメリカでもヨーロッパでも失われているという。
日常である「ケ」が少なくなって「ハレ」が続いている状態は、地域性が失われた結果ではないか。
儀礼の問題、そして「葬儀」の問題は次回ということで。都市生活で機能している宗教性について、内田さんに話が振られた。
内田さんが生まれ育った東京は「めぼしい馬鹿が集まる」ところらしいのだが、パワーのある人、ギラギラしてものを持っている人が多い。
つまり、都市に集まる人々は波動の強い人が多いので、「共振」を避けるためにはガードを固くする必要がでてくる。
ガードを固くしてしまうと、「良い波動」もガードしてしまうことになる。
24時間喧噪に満ちた都市では何がきても反応しないようにガードを固めるしかなくなる。
ガードを下げた状態で暮らしたいほうなので、そうすると東京では波動が痛い。
それで東京を逃げ出し、芦屋に生活を移したとのことだった。(続く)
【内田樹関連記事】
2006年5月28日号「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(4)科学主義と霊性」
2006年5月26日号「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(3)麻雀コミュニケーション理論」
2006年4月24日号「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(2)こんにゃく問答」
2006年4月16日号「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(1)」
2006年2月27日号「内田樹『知に働けば蔵が建つ』──(3)靖国問題」
2006年2月25日号「内田樹『知に働けば蔵が建つ』──(2)「日の丸・君が代」
2006年2月21日号「内田樹『知に働けば蔵が建つ』──(1)大衆社会とは」
2005年12月19日号「内田樹『街場のアメリカ論』」
2005年12月7日号「内田樹講演会『学びからの逃走・労働からの逃走』──(2)」
2005年12月2日号「内田樹講演会『学びからの逃走・労働からの逃走』」
2005年11月14日号「女人禁制と性同一性障害」
2005年10月14日号「内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る──生きづらさの正体』
2005年9月9日号「内田樹「史上最弱のブロガー」」
2005年6月26日号「内田樹・名越康文『14歳の子を持つ親たちへ』」
2005年2月7日号「チアン先生はえらい !」
2004年12月28日号「キース・ジャレットの単音」
2004年11月9日号「身体感覚と時間のコントロールについて」
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コメント
「科学主義」と「霊性」(日本的な仏教も「仏性」という概念があり、この世のものすべてに「仏性」があるという。日本のある時代で神道と融合があったのかも知れない)では、「科学」で証明できないものもあり、証明できないからといって存在が無いわけではない、ということですか。
日本古来の神は、現代においてケになってしまって、お祭り騒ぎはハレではなくなった。盆と正月は、ケになりつつある現代人は、強烈な新興宗教に対して無防備であり、ハレと感じてしまう。ということですか? (よく理解していないかもしれない)
村のお祭りがハレだった時代。講和がハレだった時代。そんな時代がつい最近まであったのだと思う次第です。映画の虎さんにそんな雰囲気が感じられます。祭りの太鼓の音、笛の音、笙の音、詔が、読経がそう言う物に波動を感じていたのかも知れませんね。(教会ではパイプオルガンか)
テレビの馬鹿な番組、のべつにプライバシーを覗こうとするニュース番組(あれは、けっしてニュースではない)ハレを創るはずのテレビ番組がケとして映るのは、テレビ側の無能な過剰サービス精神のあらわれか(テレビ関係者には失礼)。
ある種のスポーツもハレなのかと思う次第です。
難しいことはさておき言葉の遊びでもしませんか?
プロ野球:ケ、サッカー(Jリーグ:ケ、ワールドカップ:ハレ)、国会:ケ、テレビニュース:ケ、政治:ハレになって欲しいケ、吉永小百合:ハレ、猪瀬直行:ハレになれなかったケ、キースジャレット:ハレ、ロック:ハレ→ケ、成人式:ケ、パラグライダー:個人的にハレ(HNのPGはここから)、スキー:ハレ、登山:ハレ、ヨット:ハレ、雨の日の外での昼食:ハレ、仕事:ケ....
投稿: クラッシュPG | 2006年6月 9日 16:30
難しいご質問ばかりですが、私に分かる範囲で。
「霊性」という言葉で、(仏教でいう「仏性」も含めて)多くの宗教が持っている「スピリチュアリティ」という共通性を現すものとして使われているのだと思います。
「科学」によって合理的な説明ができるのは、現実の「ごく一部」であることを忘れなければ、「非科学」的なものに足を掬われることもない、ということでしょう。
釈さんが「ハレ」と「ケ」で言われた内容は、あまり説明なしのお話でしたので、私も文字にしながら理解しにくかったところです。
柳田国男のいう「ケ」は日常的・私的な領域を、「ハレ」は非日常的・公的な領域を指していたでしょうから、釈さんが言われているのは、宗教が「制度的」なものから、「個人的」なものになっているという指摘だと思います。
極端なカルト宗教には、制度宗教が長年培ってきたようなストッパー(ハレ)が作動しにくいということかもしれません。
「制度的」な宗教は、儀礼的な要素を多く持っているので、「装置」や「様式」や「イニシエーション」などの要素も当然多くなるということでしょうか。
次回の対談は「儀礼」がキーワードになるようですので、その辺りがもう少し分かるかもしれません。
投稿: KAZE | 2006年6月10日 14:54