内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(6)「信仰」の言葉とレヴィナス訪問
せっかくなので招き入れて「対話」してみることにしたのだが、「対話のための言葉」がなく「伝道の言葉」だけなので、まったく「対話」にはならなかったという。(この感じはよく分かりますね。)
このことは、多くの宗教に共通しているかもしれない、という。
釈さんは、宗教者の交流の場を持っているらしく、例えばカトリックの僧侶には禅を体験してもらい、禅の僧侶にはカトリックの修道僧を体験してもらうような機会をつくっているとか。
この後、釈さんから、仏教でいう「止」と「観」についての解説があったが、まちがった紹介をしてはいけないので省かせていただく。
その話のあと、釈さんから、内田さんの専門であるレヴィナスについての質問が出された。
いろいろな本の中でしばしば書いておられるが、内田さんはレヴィナスが何を書いているのかまったく判読できなかった、と言う。
(内田さんがここで言っているのは謙遜ではなくて、他人の言葉が自分の中で結晶する神秘のことを強調しておられるのだろう)
そのなかで、少し判読できたところは「変なことを言ってる」ということだった。
その「変なこと」というのは、頭の中だけで構築した精緻な構造について「本気で言ってるのか」、それともあまりにも「ナマ過ぎる」ために整理できないのか、そのどちらかが分からない。おそらく、その分からなさは「現実と同じ複雑さ」をそのまま捉えようとしている分からなさではないか。これは、本人に会ってみるしかない、と内田さんは考えたみたいだ。
そして、本人の自宅を訪ねることになる。
エマニュエル・レヴィナス(1905〜1995年)の著作を(内田さんの解説の一部以外)私は読んだこともないのだが、「武闘派レヴィナシアン」と自称(?)する内田さんが、老師と敬愛するレヴィナスの自宅を訪ねたときのは話はなかなかに感動的だった。
昔、私の大学の恩師がメルロ=ポンティの講義を直接聴いたことがある、という話を聞いたときの羨ましさ(感動)にも似ていた。
もっとも私の場合はこの上なくミーハー的な興味に過ぎないのだが…(^^;)。
レヴィナスは1995年に90歳の長寿を全うして亡くなっているので、内田さんがいつ訪ねられたのかは知らないが、かなりの高齢であったことは確かだ。
自分が研究対象としている(当然、憧憬と敬愛の対象でもあろう)学者に直接会うというのは、どれほど胸躍るものか想像がつく。
内田さんが訪ねると、レヴィナス老師はアパルトマンの階段の上で両手を大きく開いて待っていてくれて、歓待してくれたのだそうだ。
割と小柄で、コロコロした小熊のような印象だったという。
「偉大な人は、優しいし、威張らない」「偉大な人は、エプロンがよく似合う(笑)」とは内田さんの言である。
レヴィナスとの出会いの思い出を語る内田さんが、実に幸福感に満たされているようにみえたのは、私の気のせいではあるまい。
夫人が入院中だったらしく、自宅には本人だけで、はるばる遠くから訪ねてきた旅人をもてなすように、飲み物をすすめてくれる仕草も、ホスピタリティに満ちていたという。
著書にサインをしてもらおうとした(意外でなくミーハー?)が、「今日は安息日ですよ」とやんわり断られたのが、とても残念だったらしい。
ユダヤ教では確か土曜日が安息日のはずだから、きっと訪ねたのは土曜日だったのだろう。
「仕事を休んでお祈りをする日」ではあろうが、はるばる訪ねてきた旅人にサイン一つもできないとは、何という厳格な信仰であろうか。
私なら、別の日にもう一度訪ねるかもしれない。(続く)
【内田樹関連記事】
2006年6月8日号「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(5)霊性と共振現象」
2006年5月28日号「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(4)科学主義と霊性」
2006年5月26日号「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(3)麻雀コミュニケーション理論」
2006年4月24日号「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(2)こんにゃく問答」
2006年4月16日号「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(1)」
2006年2月27日号「内田樹『知に働けば蔵が建つ』──(3)靖国問題」
2006年2月25日号「内田樹『知に働けば蔵が建つ』──(2)「日の丸・君が代」
2006年2月21日号「内田樹『知に働けば蔵が建つ』──(1)大衆社会とは」
2005年12月19日号「内田樹『街場のアメリカ論』」
2005年12月7日号「内田樹講演会『学びからの逃走・労働からの逃走』──(2)」
2005年12月2日号「内田樹講演会『学びからの逃走・労働からの逃走』」
2005年11月14日号「女人禁制と性同一性障害」
2005年10月14日号「内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る──生きづらさの正体』
2005年9月9日号「内田樹「史上最弱のブロガー」」
2005年6月26日号「内田樹・名越康文『14歳の子を持つ親たちへ』」
2005年2月7日号「チアン先生はえらい !」
2004年12月28日号「キース・ジャレットの単音」
2004年11月9日号「身体感覚と時間のコントロールについて」
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コメント
(6)ありがとうございます。決して催促していません。(またもやプレッシャーを与えている結果に)
私は、宗教に対して「ミーハー」です。「止」と「観」について初めて聞いたので、私なりに調べてみます。「ケ」、「ハレ」も今回初めての言葉だったので調べて見ました。つまるところまだ初心者の端くれにも満たない若輩ものです。宗教とは信仰とは私にとって必要なものであるかが今の私のテーマです。この先何を読むべきかが一番の問題です。近道はないのかも知れません。
>「対話のための言葉」がなく「伝道の言葉」だけなので、まったく「対話」にはならなかったという。
人の言葉を鵜呑みにして、自分の頭で理解していないからでしょう。
本物の禅の僧侶、本物のカトリックの修道僧の本物の波動を感じてみたいものである。
投稿: クラッシュPG | 2006年6月10日 16:56
釈さんの説明を私の(乱雑な)メモで読み解くと、仏教では人間の感覚は放っておくと暴れるので、心も体も静かにすることを「止」というそうです。「観」のほうのメモは、ビバシャナ、瞑想、痛み・怒りという文字だけがあって、メモった自分でも意味不明です。
この対談は、4回目の東京が終わると(恐らく)単行本として出版されるでしょうから、そのとき確かめて下さい。
それから、私も後で読んだのですが、お二人の共著『いきなりはじめる浄土真宗』と『はじめたばかりの浄土真宗』の2冊は、今回の対談と共通した内容も含まれていますので、よろしければご一読下さい。
投稿: KAZE | 2006年6月19日 20:11