内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(7)能と武道の身体技法
そもそも、能の演目の95%は「霊」の話で、当時の宗教教育の一環を成していたらしく、魑魅魍魎(ちみもうりょう)という共同幻想と、如何にして折り合いをつけるかというテクニカルな問題がテーマだったと考えられるそうだ。
能の物語を演じる謡の発声法も、上手なひとほど人体のさまざまな骨や筋肉などが「倍音」をつくり、それぞれが少しずつずれてくることでハモるのだという。
これは、すぐれた「お経」にも通じるらしく、意味が分からなくても涙が出てくることがある、と釈さん。
内田さんの話で、いちばんビックリしたのは、能が演じられる舞台に、何の役割もなく控えているように見える「後見」が、実はいざというときに果たす重要な役割のことだった。
主役を演じるシテ方は、窮屈な面(おもて)を顔ピッタリに被っていて、おまけに全身を使った発声をしなければならず、しばしば高齢であることも多いので、酸欠状態やもっと別の理由で「舞台で倒れる(亡くなる)」ことも珍しいことではないらしいのだ。
普通のステージであれば、主演者が倒れると幕が降りて公演は中止になるのが当然と考えられるが、能ではそうならない。
演目は中止されることなく、控えている「後見」がシテの代役を直ちに引き継いで、最後まで演じ切るのだという。
究極のダブル・キャストである。当然、いつでも交代ができるように、シテの演目は熟知していなければならず、そのためにシテと同じ扇を懐中にして出ているらしい。
なぜ途中で止めないのかというと、演じられている間、「霊」が能舞台に降りてきているからなのだ。
身体技法に関連したことでは、「踵(かかと)を床から離さない摺り足」という能に独特の不自由な歩き方は、わざとそこに力を溜めるための技法なのだという。
身体は、同じ部位に相反するベクトルを同時に発生させることによって、爆発的なパワーを生み出すことができるのだそうだ。
踵を上げないで歩くことは、普通に歩けば上に浮き上がろうとする力と、それを上がらないように押しとどめる力とが同時に発生する。
同じ例として、刀を振るうときの手の動きを内田さんはあげたが、この例は私にも大変よく分かった。
刀(ふつうは竹刀)を握る手は、右手は(右利きの場合!)剣を「投げる」ベクトルとして作用し、左手は同じ剣を「引き戻す」ベクトルとして作用する、という訳だ。
私も剣道をしていたことがあるが、例えば相手に面(頭につける防具)を撃たせる練習などのとき、下手な相手に撃たせると鈍器で殴られたような痛みが頭頂からズシンと走るが、上手な相手のときはごく表面だけがピシリと痛むだけであるのを思い出した。
つまり、上手な相手の場合は、竹刀が私の部位に当たる数ミリのところで停止するように振り下ろされているのだ。
竹刀がそこで止まるので、私が体をかわしても、態勢は崩れないのでスキが生まれにくい。
下手な相手の場合は、もし私が切っ先をかわせば振り下ろされた竹刀は空を切って落ちていくことになり、態勢が完全に崩されてしまい、そこを相手に衝かれることになる。
(その後のブログに、内田さんが少し詳しく書いておられるので、興味のある方はこちらをどうぞ)
余談ながら、私の高校時代の剣道にまつわる話を一つ。
私が剣道部に1年生として入部したとき、3年生の部長は森恒夫という名前のひとだった。
体育会系の非情な男を思い浮かべる人も多いかもしれないが、1年生から見た彼は、どちらかというと頼りないほど優しい上級生だった。
痩せていて顔の形がラッキョウに似ていたせいで、下級生の私たちが彼につけたあだ名は「ラブらっきょ」だった。
ネットで調べてみると、向かうところ敵なしの「剣道の達人」であったとの記述があったが、自分が1年生だったせいなのか(直接相手をしてもらった記憶がないので)、あまりそんな印象はない。
だが、それほど上背もなく、痩せていて「強そう」なイメージはないのだが、体捌きが非常に敏捷だった記憶はあり、対抗戦では負けなしだったという記述も本当かもしれない。
部長だったのだから、相当の実力を持っていたことは確かだろうが、下級生に対しても優しいソフトな性格は、悪く言えば優柔不断な内面があったのかもしれず、あの榛名山中などでの陰惨なリンチを防ぐことのできなかった「弱さ」にも通じているのかもしれない。
高校を卒業してから、最初で最後に彼を見かけたのは4、5年後のことで、まだ立命館大学の広小路に校舎があったころ、その広小路学舎で京都府学連主催の関西全体の集会がまだ開かれていたころのことだった。
「まだ」というのは、ご存知の方はご存知であろうが、立命館大学は日本共産党系の教授陣や学生組織が強いところだったので、反日共系だった京都府学連の集会がそこで開かれること自体が最後の頃だったのである。
それはともかく、私がまだ1回生のころだったと思うが、その集会に大阪市大のデモ隊を率いてやってきたその先頭に彼がいた。
そこに見た彼は、高校時代とは別人のような、筋骨逞しく精悍な顔をした「学生運動の闘士」に変身していた。
彼の指名手配の写真がずいぶん長くあちこちに貼られていた。その顔を見るたびに何となく懐かしく、まだあの凄惨な事件が知られていなかった頃だったので、(そんな可能性はゼロだったが)もしも私に助けを求めてくることがあれば、主義主張とは無関係に匿ってやることを夢想したこともあった。
29歳の彼が拘置所の独房のドアノブなどを使って首吊り自殺を遂げてから、もう33年が経った。
【内田樹関連記事】
2006年6月10日号「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(6)「信仰」の言葉とレヴィナス訪問」
2006年6月8日号「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(5)霊性と共振現象」
2006年5月28日号「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(4)科学主義と霊性」
2006年5月26日号「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(3)麻雀コミュニケーション理論」
2006年4月24日号「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(2)こんにゃく問答」
2006年4月16日号「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』──(1)」
2006年2月27日号「内田樹『知に働けば蔵が建つ』──(3)靖国問題」
2006年2月25日号「内田樹『知に働けば蔵が建つ』──(2)「日の丸・君が代」
2006年2月21日号「内田樹『知に働けば蔵が建つ』──(1)大衆社会とは」
2005年12月19日号「内田樹『街場のアメリカ論』」
2005年12月7日号「内田樹講演会『学びからの逃走・労働からの逃走』──(2)」
2005年12月2日号「内田樹講演会『学びからの逃走・労働からの逃走』」
2005年11月14日号「女人禁制と性同一性障害」
2005年10月14日号「内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る──生きづらさの正体』
2005年9月9日号「内田樹「史上最弱のブロガー」」
2005年6月26日号「内田樹・名越康文『14歳の子を持つ親たちへ』」
2005年2月7日号「チアン先生はえらい !」
2004年12月28日号「キース・ジャレットの単音」
2004年11月9日号「身体感覚と時間のコントロールについて」
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コメント
> 能の演目の95%は「霊」の話で
わぁ 今度は、能ですか。そういう観点で見る必要があったのですね。知らなかった。某放送局(どうしても公共化したい局)がやっていますね。毛嫌いせずに今度観ます。
>「踵(かかと)を床から離さない摺り足」という能に独特の>>不自由な歩き方
甲野善紀(こうのよしのり)氏の古武術を連想されられます。
1度N放送局でやっているのを観ました。すごく興味が惹かれましたが、今日まで忘れていて、インターネットで甲野氏、ナンバ走りを調べました。
>刀(ふつうは竹刀)を握る手は、右手は(右利きの場合!)剣を>「投げる」ベクトルとして作用し、左手は同じ剣を「引き戻>す」ベクトルとして作用する
コンピュータ・シミュレーションすればよいのでしょうが、私にはその体験もないので、刹那、瞬間をどの時間単位(ms)であらわして行くのか、振りかざした竹刀の質量は、押す力とその作用する時間、引く力と作用する時間、反作用として腕の質量、力の方向、身体全体の質量と身体全体の複雑な筋肉の動き(ばね性)骨の動き、重心の移動。
もし、刀で切るものがあった場合に、切り裂くものの硬さ・粘性のある物体であるので複雑ですね。自宅のPCではいきませんね。せいぜい空を切る音(カルマン渦)がどんな周波数になるかがわかる程度です私には。
また、映画、教育問題、その他、特に「内田樹vs釈徹宗live対談『現代霊性論』」を期待しています。
ところで、私の会社では閉ざされた一室の喫煙所があり、最近たびたびにおいを我慢して行くようになりました。昨夜、寝ながら、タバコの利点は何だろうと考えたところ、一服することにより仕事の切り替えができること。タバコをすっている同士職種を越えたコミュニケーションができること。これはいいことである。会議だけではいいアイデアや助言が得られない。これをタバコを吸わない人にも応用できないかと。そこでまた眠ってしまった。
外資系エレベータ会社に勤めるPGです。(シンドラーではない)
投稿: クラッシュPG | 2006年6月11日 22:50
甲野善紀さんの話題は(著書でもよく登場しますが)対談のなかでも登場しました。
私のいちばん記憶に残ったのは、「縦に振りながら同時に横にも振る」という甲野さんの剣法の話でした。
常識的には「そんな馬鹿な」と思う人が多いでしょうが、似たようなことはいろいろなスポーツでもあるのではないでしょうか。
それから、いくらコンピュータでもシミュレーションは無理だと思います。
例えば、料理人の包丁遣いでも、宮大工の鉋(かんな)のかけ方でも、「数量化」するのは難しいのではないでしょうか。
団塊世代の大量退職で「技術」が受け継がれない、というテレビ番組で、造船所の鉄板に熱を加えてカーブをつけていく技術があるらしいのですが、どんなに細かくデータを数量化しても、「長年の経験と勘」と同じ結果が出せないようでした。
人間の五感は、数量化できないデータを経験という時間を通して受容しているということでしょう。
投稿: KAZE | 2006年6月19日 20:14