内田樹『私家版・ユダヤ文化論』
まず最初、なぜ今「ユダヤ文化論」なんだ ? という疑問が当然あった。
そして、読み進むうちにその疑問は解き明かされていくのだが、読み終わった時点でもう一度「なぜユダヤ文化論なんだ?」という疑問に立ち帰った。
この本を読んで初めて知った人物がたくさんいて興味深かったし、「日猶同祖論」なんていう途方もない理屈が大真面目に論じられていた理由も初めて知ったし、あのモーリス・ブランショが極右青年だったことも。
映画『謀議』(2006年5月27日号)で登場したユダヤ人を選別するための法律が「ニュルンベルク法」という名前であることも初めて知った。
そういうエピソードによって描かれる「ユダヤ人」問題の、というよりも多くは「反ユダヤ主義」を通した「ユダヤ人」問題の輪郭は、われわれには馴染みの少ない「問題」のありようを浮かび上がらせてくれる。
著者がこの本で真正面から取り上げようとしているのは「差別」の意識や構造を、哲学の水準で解いてみようという果敢な試みである。
著者は「はじめに」でこう書いている。
《人間の邪悪さと愚鈍さはどのような様態を取るかについてなら、私はたいへんに詳しい。私自身がその無尽蔵のデータベースだからである。》(8ページ)
だが、「差別」を論じるときの最大の困難は、(著者も書いているように)本人の意図とは無関係に「差別」を論じることが「差別」を助長したり、そうならなくても「差別」されている側の人々を傷つけたり苦しめる場合があることだ。
「差別」の問題は、「語る」こと自体が難問中の難問なのである。
著者の「差別」についての視点が納得いかない点があることを、以前に指摘したことがある。(2005年11月14日号)
だから、同じ著者が改めて「差別」の構造を主題しようとしている本が、興味深くないわけがない。
だが、まだ疑問が解消しない点や、《ケリのつかない》問題がたくさん残っている。
例えば、どう考えても私には理解ができない点では、つぎのような箇所がある。
《私たちは「ある出来事の受益者がその出来事の企画者である」ということは論理的には成り立たないとを知っている。》(107ページ)ここの文脈は、すべての出来事を「ユダヤ人の陰謀」として片付ける単純さを批判しているところである。
しかし、そうでない場合もむろんあるだろうが、「ある出来事の受益者がその出来事の企画者である」というのが普通ではないかと思うのだが、なぜ「論理的には成り立たない」ということになるのか、純然たる疑問として未解決のままである。
あるいは次のような箇所。
《被害者との同一化によって「告発者」の地位を得ようとする戦略そのものは別に特異なものではない。「周知の被迫害者」とわが身を同一化することによって、倫理的な優位性を略取しようとする構えはすべての「左翼的思考」に固有のものである。「告発者」たちは、わが身と同定すべき「窮民」として、あるときは「プロレタリア」を、あるときは「サパルタン」を、あるときは「難民」を、あるときは「障害者」を、あるときは「性的マイノリティ」を……と無限に「被差別者」のシニフィアンを取り替えることができる。「被差別者」たちの傷の深さと尊厳の喪失こそが、彼らと同一化するおのれ自身の正義と倫理性を担保してくれるからである。》(70ページ)同じようなことを、サルトルは「同伴者」という言葉で表現していた(と記憶する)。
言わんとするところは分かるし、「左翼的思考」に対する嫌悪も理解できるが、少し感情的になりすぎではないか。
こういう思考構造は別に「左翼」の専売特許ではあるまい。
例えば、北朝鮮による拉致被害者や家族たちに寄り添うフリをして己の野心やイデオロギーの宣伝に利用するような「政治家」や学者も同じではないか。もちろん「左翼」が見向きもしなかった「拉致事件」に(動機はともかくとして)彼らが積極的にかかわってきた功績は評価しなければならない、
拉致被害者たちや家族からすれば「利用される」ことは知っていても、誰も助けてくれなかった状況からすれば感謝したい気持ちになるのは当然だからだ。
あるいは、「被差別者」の問題が、日常的な活動にすっぽりと含まれているような、例えば「学校」という場では、《おのれ自身の正義と倫理性を担保》する必要もなく、直面している場合もあることは忘れないでいただきたい。
例えば、イジメの問題が発覚したとする。
「イジメ」られている「被差別者」の側に立つことは《おのれ自身の正義と倫理性を担保》するためではない。
被害を受けている生徒を救出し、暴力から守ることは最優先にされるべき課題であるだけのことだ。
「障害者」であれ「性的マイノリティ」であれ「在日コリアン」であれ「部落生徒」であれ、すべて同じことである。
こういう現実を分かってもらえるかどうか自信はないが、《被差別者との同一化》という批判が的外れな場合もあるのだ。
「新書版のためのあとがき」で著者はこう書いている。
《本書が「わかりにくい」大きな理由は、実はユダヤ人が読んだときにも「わかる」ように書いているせいなのである。そういう書き方をする人はあまりいない。》《論じられている当のご本人が読んだときにどう思うだろうということをいつも念頭に置いている。》(240ページ)いないどころか、そんなことは、当たり前のことではないか。
「差別」にかかわる問題を論じるときには、「被差別者」がどう読むかを考え書くのは当たり前のことだ。
例えば、ふたたび学校のことで恐縮だが、大阪なら(大阪は全国で在日コリアンの人口が最も多い)教室に在日コリアンの生徒が在籍していることは珍しいことではない。その生徒を含めた多くの日本人生徒に向かって、朝鮮半島での植民地支配のことや、創氏改名や強制連行の話をするとき、「在日コリアンの生徒がどんなふうに聞くか」という想像は、日本人生徒たちがどう聞くかという想像と同時に、教師である私の最も重要な問題になる。
「障害」を持つ生徒がいるとき、「部落出身」の生徒がいるとき、あるいは、いるかどうかも分からないが(統計的には4パーセントらしい)「同性にしか興味を持てない生徒」が聞いて傷つくような「同性愛」を笑いものにするようなジョークなど、日常的に「聞いた本人がどう思うかをいつも念頭においている」のは当たり前のことだ。
《ユダヤ人差別には現実的な根拠はない。》(167ページ)と、著者は断言する。
日本の部落差別にはもっと「現実的な根拠はない」のだ。
ユダヤ人差別が《「幻想」の境位で起きている出来事に根拠を持っている》(167ページ)という著者の指摘は、日本の「部落差別」の構造にも共通してくるだろう。
ユダヤ人たちは、《キリスト教世界では「賤民」として扱われ、土地の所有や農業への従事が禁じられていた。彼らには高利貸しや行商や芸能など、キリスト教徒からすると非生産的な職業だけしか許されていなかった。》(46ページ)
という点も、日本の被差別民の状況に似ている。
著者の好きな能楽を含めた多くの芸能や芸術が、室町時代以来、被差別民によって担われてきた状況と共通する。
だからといって、被差別民に固有の「芸術的才能」と言ってしまうのは「贔屓の引き倒し」というべきであろう。
そもそも主要な生産過程から排除された結果として、ユダヤ人たちが「高利貸し」とならざるをえなかったのと同じように。
私も以前にインドの「不可触賤民」のことを書評で取り上げたことがあり(2005年3月14日号)、それは日本の「女人禁制」と同じ源泉からきていることを紹介するためでもあったが、所詮は「外国の差別」である気楽さは否めない。直接私自身が鏡に映されることはないからだ。
だが、日本での「部落差別」や「在日コリアン」に対する差別などを書く時は、書いている自分が鏡に映される。
フランス人サルトルが「ユダヤ人」差別について語ることと、日本人ウチダが「ユダヤ人」差別について語ることとは同じではない。
同じであるためには、日本人ウチダが「部落」差別についてや「在日コリアン」差別について語らなければならない。
折しもイスラエルは、パレスチナやレバノンに対する「ナチスもかくや」と思えるほどの非人道的な軍事攻撃を激化させている。
この事実も、ホロコーストの犠牲者であった「ユダヤ人」と、パレスチナの人々に対する「ホロコースト」を実行しているような「ユダヤ人」も含めて論じなければなるまい。
もちろん、徴兵されたイスラエル兵士の一人一人の苦悩も想像する必要はある。(2006年4月30日号)
サルトルが「パレスチナ問題」について、こんなたとえ話をどこかに書いていた。
ヨーロッパの戦争を「家の火事」にたとえて、「窓から飛び降りなければ焼け死ぬ=ユダヤ人」が「イスラエル」を建国したのだが、「飛び降りた場所=パレスチナ」にもともと住んでいた人々は、いくら「飛び降りないと焼け死ぬ」からと言われても「自分たちが下敷きにされて犠牲になる」ことを受け入れなければならない理由はないと主張するのは当然ではないか、という意味のことを言っていた(と思う)。
つまり、ユダヤ人たちが犠牲者であったことは事実だとしても、ユダヤ人たちのためにパレスチナの人々が犠牲者にならなければならないはずはない、ということだ。
【関連記事】
2006年5月7日号「『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』」
2004年12月23日号「魚住昭『野中広務 差別と権力』」
| 固定リンク













コメント
はじめまして。
考え考え書いている文章には力がありますね。
わたしも難しいことはよく分かりませんが、
>なぜ「論理的には成り立たない」ということになるのか
については、単に
『反例がひとつでもあるものは真ではない』
というふうに、数学的に理解すればよいのではないかと思います。
いずれにせよ、人を考えさせる本というのは、よい本ですね。
投稿: mukuholic | 2006年8月 2日 00:59
mukuholicさん、初めまして。
コメント、有り難うございました。お礼が遅くなりましたことをお詫びします。
ご教示いただいたこと、ずっと考えていたのです。
「論理的」にはご指摘の通りだと私も思うのですが、何のためにそのことを持ち出しているのか、その点がまだ釈然とはしません。
また、考えたいと思います。今後ともヨロシク。
投稿: KAZE | 2006年8月 5日 21:40