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2006年11月 3日

『奥の細道』暗誦

Education_6

昼休み(実は見回りをする必要があって)教室に行くと、生徒たちが三々五々国語の教科書を手に、必死で暗誦を繰り返しているではないか。
たぶん、その日に暗誦のテストがあるからに違いなかったが、聞いていると『奥の細道』の最初の部分である。
必死でやっているのは、どちらかというと憶えるのが苦手そうな生徒が多く、彼らの「唱える」暗誦がほほえましい。
私に教科書を渡して、「センセ、聞いてな」と詰まり詰まり、時々私が助けてやりながらも、なかなかの記憶力なのだ。

聞いているうちにとても懐かしい気分になってきて、私が諳んじてみせると「オオーッ!」と驚いてくれる。

《 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

  草の戸も住替る代ぞひなの家》

とりわけ私は、歳のせいもあるのか、この《片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず》のところがいちばんグッとくる。
生徒たちは正確な読み方を習っているとみえて、「つきひははくたいのかかくにして」とちゃんと読んでいる。
授業で習ってはいても、恐らく、自分が声に出して読んでいる内容の、ほとんど意味は分からないまま暗誦しているに違いない。
要するに「お経」を読むような感じだろう。(お経と同じくらいの御利益もあるはず)

だが、私がいまでも諳んじているように、きっと訳も分からず暗誦した一文はいつまでも忘れることはあるまい。
私が古典や漢籍が好きになったのも、こうした暗誦を「させられた」からである。
すべての子供たちが暗誦によって好きになるわけではないだろうし、なる必要もないが、「素読」という学習方法には大きな力が秘められているような気がする。

中学生たちにとっては、古文も漢文も「完全な外国語」である。
英語以上にその文法的な理解は難しいだろうから、一つ一つの文章の意味を習っても十分な理解ができる訳ではない。
だから、意味も分からず「丸暗記」するしかないのだが、本人たちはこんな「暗誦」にどんな意味があるのか考えても納得はできないことだろう。
脳細胞にインプットされた「訳も分からない」データの意味が分かるのは、10年後、20年後になってからなのだ。

もちろん生徒たちは、進路を間近にひかえた、成績に敏感な3年生なので、テストで評価されるために必死で暗誦しているに違いないのだが、「教育」とは何か、「文化の継承」とは何か、改めて考えさせられる。
ちょっと想像してみていただきたいのだが、中学生たちの口からスラスラと『奥の細道』の序文が語られているのを聞いていると、何か不思議な気分になってくる。
いつもの彼らではないような、「やるじゃないか」という気分になるのである。

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