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2008年5月23日

光市母子殺害事件に死刑判決

Justice

差し戻し審は予想通りの「死刑判決」で、上告も棄却される公算が大きいようなので、遠からず確定するのだろう。
それにしても、真実がますます見えにくくなってしまった、後味の悪い裁判である。
事件と裁判そのものについては、多くの人々が語っているので、少し別のことを3つほど書き留めておきたい。

(1)「動機」を裁くことはできるのか。
殺人事件での裁判は「殺意があった」か「殺意はなかった」かについて最も大きな争点となる。
殺人という事実があっても、弁護側は「心神喪失」や「心神耗弱」、今回の裁判でも「幼稚な未成年」といった理由が「殺意はなかった」という根拠になっていた。
2人の人間を「うっかり殺してしまった」などという説明が通用するのかどうかはおいておくが、「殺意の有無」を裁くこと自体に無理があるのではないか。

日垣隆が言うように「動機」というのは一種のフィクションでしかないとも言える。
それこそゴルゴ13でもないかぎり冷静沈着に人殺しができる人間などそう多くいるわけがない。
何らかの興奮状態や常軌を逸した感情の果てに人を殺してしまうケースが大半ではないのか。
捕まってから、取り調べの中で「動機」を追求されて、「金のため」「恨みのため」などいう物語が作られていくのではないか。

「動機」が「金目当て」や「怨恨」など、「理解可能」な場合は分かりやすいが、包丁を振り回して通行人をつぎつぎの殺傷するような事件や、電車を待つ人をプラットホームから突き落として殺すような事件は、「誰でもよかった」とか「死刑になりたかった」と言われても、そんな「動機」は「理解不能」となり、「精神鑑定」の結果「刑法39条」が適用されることになる。
「動機」ではなく、証拠にもとづいた「犯罪事実」についての責任だけを問えばいいのではないか。

(2)取り調べの「全面可視化」が不可欠。
今回の光市母子殺害事件の取り調べが、もし仮に全面的に「録画」されていたとしたら、どうなっていたのだろうと考える。
18歳の少年は、取り調べの初期の段階から「ドラえもん」だの「魔界転生」などという供述をしていたのだろうか。
それとも、大弁護団が言うように、「あまりにも幼いため」警察の誘導に従って「本当のことを言えない」まま調書にサインしたのだろうか。
今となってはドラえもんの「タイム・マシン」でもない限り確かめようもないことだが、「録画」されていれば取り調べの実態は白日の下にさらされたはずだ。
もちろん、その「全面録画」が被告人に有利に働いたか、かえって不利に働いたかは分からない。
だが、密室で行われた取り調べを争うよりも、はるかに公正な条件が整うことだけは間違いない。

警察があれだけ「可視化」を厭がるには、よほど「可視化」されたくない理由があるのだろう。
「可視化」すれば供述が得にくくなる──と、しばしば理由があげられているが、具体的にどんな場合があるのか、詳しく説得力のある説明は聞いたことがない。
冤罪被害者や弁護士会が主張しているように「部分的な可視化」は、かえって冤罪を生むことになろう。
警察・検察にとって都合のいいところだけを編集するに決まっているからだ。

(3)「裁判員制度」との関わり。
来年から始まるという「裁判員制度」との関連もマスコミでしばしば取り上げられている。
裁判員にとって、公平な証拠(「取り調べの全面可視化」)が提示されなければ、「冤罪」や「誤審」を避けることは不可能だろう。

カナダ・モントリオール在住の日本人女性が、ラジオでカナダの「陪審員制度」と比較して日本の「裁判員制度」への危惧を述べていた。
彼女は、「裁判員制度」と「陪審員制度」が同じようなものだと誤解していたが、彼女が指摘する「陪審員制度」をめぐる実態は想像もしなかったものだった。
それは、12人の陪審員が凶悪な事件の裁判に関わるとき、犯行現場の写真や遺体や凶器などを当然見聞することになるのだが、警察官でも裁判官でもない普通の市民が平気で直視できるようなものではない。
そのため、陪審員たちが被る「精神的なダメージ」は計り知れず、必ずカウンセラーや精神的なケアをするためのスタッフが準備されているのだそうだ。
日本の「裁判員制度」では、そんな準備がされているのかどうか、というのが彼女の指摘だった。

言われてみれば確かにその通りだろう。
殺害された遺体や解剖所見など、気の弱い人ならは吐き気を催して、夜も寝られなくなるのではないか。もっと深刻なPTSDに悩まされる可能性もある。
量刑を決める「責任の重さ」ばかりが強調されているが、それ以前にもっとすさまじい経験が待っていることを、裁判所も弁護士会もマスコミも口をつぐんでいる。
極端に言えば、裁判員本人の一生を左右するかもしれない、人生観を一変させてしまうかもしれない、一大事となる可能性もある。

モントリオール在住の日本人女性が言うには、陪審員に選ばれた12人の人たちは、裁判が終わった後も連絡を取り合ったり、集まったりして交流しているのだそうだ。
それは「同じ経験をした者同士にしか分からない」連帯感、自分が背負わされてしまった経験を「分かり合える」のは12人しかいないという切実な現実による。それほど解消不能な、癒しがたい傷を負ってしまう、ということだろう。(しかも、カナダは死刑廃止国でもある。)

その上に、日本では量刑の判断である。
カナダでは、陪審員は「有罪か無罪か」を評決するだけで、量刑は裁判官が決定する仕組みになっているが、日本の裁判員は量刑の判断まで責任を負わされている。
全国各地で行われている「模擬裁判」でも、死刑を求刑するケースだけは最高裁が「今後も避ける」と明言している。
最高裁はもっともらしい理由を並べているが、本当の理由は「裁判員制度の過酷さが明々白々になると困る」からだろう。
裁判員の負担を本当に検証するのが目的なら、実際には遭遇するはずの「死刑」判断のケースを除外するべきではあるまい。
スタートする1年前の今から、もうすでに裁判員制度は最高裁みずから無理があることを認めていることになる。

【関連記事】
2007年11月30日号「高山俊吉「裁判員制度のワナ」
2007年5月27日号「日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』──(1)「刑法39条」
2007年5月19日号「17歳の母親殺し

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