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2009年4月13日

今橋映子『フォト・リテラシー』

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「報道写真」は、ライカをはじめとした小型カメラが発明された第一次大戦と第二次大戦のあいだ頃から、歴史的な記録を担うメディアとしてヨーロッパ中心に発展してきた。
その「報道写真」を歴史的な文脈で読み解こうとする本書の冒頭で、著者は「慣習的思考」に対する挑発的なテーゼを掲げる。
《○写真は、現実や事実を決して写せない。
 ○決定的瞬間など、この世に存在しない。
 ○ドキュメンタリー写真は、「やらせ」から出発した。
 ○世界各地の戦争や悲惨を撮った写真は、世界の現実を変えはしない。》(3ページ)

「フォト・リテラシー」という言葉は著者の造語ではないらしいが、「メディア・リテラシー」ほど一般的に使われている用語でもないという。
著者は「フォト・リテラシー」という用語を、こう定義する。
《市民が写真メディア(特に現実を報道する役割を担う写真)を、芸術史的および社会的文脈の双方でクリティカルに分析し、評価できる力、延(ひ)いてはその知識と倫理をもって、一方で歴史認識を精錬し、他方で現在における多様なコミュニケーションを創り出す力を指す。》(8ページ)

最初に取り上げられるのは、もはや伝説と化した写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真集『決定的瞬間』である。
この本のタイトルが、その後の報道写真と読み手の両方を呪縛するドグマとなっていくのだが、実は英語版の「誤訳」に基づいていることが指摘される。
原題の『Images à la sauvette』を直訳すれば「かすめ取られたイマージュ」という訳語がふさわしいと著者は言い、英訳者はタイトルを『The Decisive Moment』(決定的瞬間)としただけでなく、序文の文章を勝手に改竄しているという。
このタイトルの改変は、何人かの写真家の文章にも登場するので、比較的よく知られるようになった事実のようだ。

カルティエ=ブレッソンの3原則は、(1)絶対的な構図の優位性、(2)演出写真の否定、(3)トリミングの拒否、と言われているのだが、よく知られている彼の写真の一つである「サンラザール駅裏、ヨーロッパ広場」(水たまりを跳び越えていく通行人、実は友人の詩人)が実はトリミングされていたという発見は面白い。
カルティエ=ブレッソンの写真のほぼすべてには黒い縁取りがあり、それはフィルムのパーフォレーションをわざと残して「ノートリミング」であることの証明しているのだが、この「サンラザール駅裏、ヨーロッパ広場」ともう一枚の「パチェッリ枢機卿」の2枚だけは黒縁がなく、トリミングが行われているのだという。

この例外的な2枚でカルティエ=ブレッソンの原則が大きく損なわれることはあるまいが、もっとマニアックな面白い話も紹介されている。
《1930-40年代にカルティエ=ブレッソンが使用していたのはライカICかライカII型と呼ばれる機種のカメラであり、これらの機種の段階では、ファインダーを覗いてみると像が暗くて小さくて、実は被写体が良く見えないのだという。ファインダーを覗いても明るくて、裸眼に近い感覚で光景を捉えられるレンジファインダーカメラのライカM3が登場したのは、写真集『決定的瞬間』が刊行された2年後、1954年のことなのである。》(27ページ)
つまり、カルティエ=ブレッソンはかなり条件の悪い、ファインダーでは十分に確認できないカメラを使って撮り、この写真集をつくったということだ。

カルティエ=ブレッソンへの批判から出発する後の世代の写真家たちを紹介しながら、写真エイジェンシー『マグナム』の果たした役割を論じ、写真集や写真雑誌が増えるなかで「完全分業体制」や商業主義との軋轢、政治権力への屈服などの歴史が跡づけられていく。
なかでも、ユージン・スミスが『ライフ』に掲載した「スペインの村──昔(いにしえ)の貧しさと信仰に生きる」の例は、掲載された写真のすべてを見ることができるので、大変興味深い。
1950年、フランコ独裁政権下のスペインに入ったユージン・スミスは、政権に批判的な立場を鮮明にするつもりであったが、『ライフ』掲載の直前にアメリカ政府がスペインへの農業工業援助を決定したため、編集部はユージン・スミスの作品もエッセイも差し障りのない脱政治化したものにすることで掲載したのだという。

欧米の写真家たちが世界各地に旅をして撮った写真のことも取り上げられている。
カルティエ=ブレッソンの最初の妻は、ジャワ島出身の(踊り手でもある)女性だったのだそうだが、日本も含めたアジア各地で撮影した彼の作品の底にあるのは、ヨーロッパ人による「異文化表象」としての「オリエンタリズム」(@エドワード・サイード)の一種ではないか、と論じる。(155ページ)

ヨーロッパ人が植民地対象としてのアジアを見る視線だけでなく、われわれもまたステレオタイプ化した「異文化」を「見よう」とする呪縛に囚われているのではないかと、中平卓馬の言葉を引用する。
《私は同世代の多くの写真家たちがアメリカへ行き、ヨーロッパ、あるいは遠くアフリカ、ラテンアメリカへ出掛けて撮ってくる写真に感動させられたことがほとんどない。(中略)
 一言で言ってしまえば、これらの写真には一様に、旅行者だけがもつ甘えた感傷とそれと裏腹にあるつきなみな希釈された好奇心がべったりと張りついているということなのである。》(152〜153ページ。中平卓馬『決闘的写真論』「旅のもつ詐術──むしろ街路へ」)
そして、
《彼は、非西欧に脱出口を求めながらも、最後はパリの街路へと回帰するシュルレアリストの例を挙げて、いったん旅を拒み、見知らぬ者のように街路を凝視する中にこそ、世界と私との緊張を取り戻せないかと自問するのだ。そこには、現代世界の溢れかえる映像情報によって、型通りになってしまった異文化を追認するしかない表現への苛立ちがある。》(153ページ)と書く。

最後に紹介されるのは『マグナム』創始者のひとりであるジョージ・ロジャーが、1945年4月20日頃イギリス軍に従軍して、ナチス・ドイツのベルゲン=ベルゼン強制収容所解放を目撃した折の回想である。
《英国陸軍の兵士4人と1台のジープに同乗し、先頭を切って市内に乗りこんだが、そこで出会った惨状にわたしは心の底から動揺した。人品卑しからぬ紳士と話をしていたところ、やつれ果てたその紳士が、会話のさなかにいきなり倒れ、息を引き取ったのだ。わたしは、紳士の亡骸を写真に撮った。死者はそこかしこにいた。その数四千におよぶといわれる死体を、構図の整った写真におさめようとしている自分に気づいた。いったいぜんたいわたしはどうなってしまったのか。こんなことがあっていいはずがない。何かがわたしを変えてしまったのだ。世の人々にこのことを伝えるためにも、その情景を写真に撮らねばならない。したがって、わたしとしては何もしないで立ち去ることはできない。そこでわたしは、風景か何かでも撮るように、死体を具合のよい構図におさめ、写真を雑誌社に送った。しかしその時に、戦争写真はもう二度と撮らないと堅く誓い、そのとおりにしてきた。あれが最後だ。》(208ページ。「1989年10月、BBC2のインタビュー」)

写真というメディアが持つ力と危うさは、「見る者」にとっての問いかけでもある、と著者は繰り返し述べている。
盛りだくさんな資料と、興味深い論考は示唆に富んでいて、読み返すたびに新しい発見やインスパイアされる視点がある。
惜しむらくは著者の文章に染み込んだアカデミズム臭のようなもの。
単に文章表現の問題にすぎないのかもしれないが、新書本読者へのサービス精神がもう少しあってもよかったのではないか。
それらを割り引いても大変面白い問題提起には違いないので、一読をお勧めできる。

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【関連記事】
2004年8月5日号「2004年8月3日アンリ・カルティエ=ブレッソンが死んだ。

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