臓器移植法「改正」4法案
議員立法で提出された4つの法案は、2006年のA案・B案、2007年のC案、そして2009年5月に出されたD案である。
最初に提出されたA案がいちばん極端なのだが、「脳死」は一律に「人の死」だと規定し、《世論調査の結果などから理解は得られている》という。
A案では、《臓器提供の年齢制限を撤廃し、本人意思が不明のとき家族の同意で提供できる》と主張する。
医学界の大半も、このA案を支持しているらしい。
身も蓋もなく言い換えれば、「人の死」は、臓器提供のためにある、というのがA案のホンネであろう。
「臓器移植以外に治療の方法がない患者と家族」が切実な思いで臓器の提供を待ち望んでいるのと、臓器移植を積極的に推し進めたい医学界とのコラボという構造である。
言うまでもないことだが「人の死」は、臓器提供のためにあるのではない。
心臓がまだ動いている間に、臓器(とりわけ心臓)を取り出すためには、「脳死」という概念が必要なだけである。
そもそも「人の死」は、個別的なできごとだし、それをどう受け止めるかは家族や肉親の問題であって、法律で規定するようなものであるはずがない。
まだ心臓が動いていて体温も暖かい肉親の「死」を、「脳死」だから「蘇生の余地はありませんので心臓を摘出します」と言われて、すぐに納得できる肉親はいるのか。むしろ、「まだ動いている人間の心臓を摘出するのは殺すことではないのか」と思うのが普通の感覚であろう。
「人の死」がどういうものであるか、という厳粛な問いかけがそこにはなく、ただ「活きのいい臓器」を一刻も早く取り出したいという目的が先にあるので、一刻も早く「死んでいる」という共通認識が必要なので「脳死」という言葉を考えついただけのことだと誰にでも分かる。
《国際社会で活躍する我が国が、生命倫理観のみグローバル社会から逸脱した我が国独自のものを主張していていいのでしょうか》(大阪大学副学長・病院担当・門田守人)と、A案賛成者の外科医は言う。
よくまあそんな馬鹿なことが言えるものだと思う。
歴史も違えば、宗教だって異なっているし、「死生観」だって違っていて当たり前な現実を無視して、「グローバル社会から逸脱」?。まるで「Show the flag」ではないか。
グローバル・スタンダードな「死生観」などあるはずもないが、欧米諸国のように人間の身体を機械論的に考え、パーツの寄せ集めとして考えれば使える「部品」を役立てることには大して抵抗感はないかもしれないが、日本人の一般的な死生観はそれほど機械論的に割り切れるものではあるまい。
A案支持者に言わせれば、「そんな非合理なことを言ってると取り残される」ということになるのかもしれないが、ご自分の脳ミソが近代合理主義一色に毒されていないかどうか一度点検なさってみてはどうか。
少なくともこんな医者に、自分の救急救命医療を任せることなど私は絶対にお断りだ。
臓器提供者の年齢引き下げ(もしくは撤廃)が、今回の法案の3つに含まれている。
現在の法律では、15歳以下の子どもからの臓器移植は禁じられているので、認められている海外に渡航して移植するしかない現状があるからだ。
B案では12歳以上の臓器提供を認める内容だが、なぜ12歳なのかと質問された提案者は《中学入学直前の子供ならば自己決定できると判断した》と答えている。それは提案者の単なる感想であって、なぜ12歳かという根拠にはなっていない。そのうち、10歳でも自己決定できる、などと言い出すのではないか。
D案は、「15歳未満は家族の同意と第三者による審査で提供できる」と年齢制限を一挙に撤廃し、本人の自己決定さえ無関係にしようとしている。
その言い草がまたふるっている。《子供にも意思があり、それを尊重する必要がある。子供の気持ちを一番わかっているのは親だ》そうだ。
前半は自己決定のことを言っているようだが、後半は親が勝手に決めていいと言ってるのではないのか。
最近よくニュースになる「虐待」のことも論議になったようだ。
「虐待死」させられた子どもの臓器を、親の意思で提供させられるなど、まるで地獄である。
A案の提案者は、《世論調査で国民の7割が14歳以下の臓器提供を容認している》と言っているが、そんな統計が本当にあるのか。
本当だとすれば、それは「自分の子ども」の場合も容認しているのか、「自分の子ども」でなければ容認できるということなのか。
《成人の、臓器の一部分での移植でも機能を発揮できる肝臓移植は別として、臓器全体としてしか移植できない心臓移植では、小児患者の場合、国内では移植することができず》、《現在までに130名を超える患者が渡航して心臓移植を受け、そのうちの42名が9歳以下の小児患者》(門田守人)なのだそうである。
今後、WHOの決議があればなおのこと海外渡航での移植が難しくなることが予想され、国内でのドナーがどうしても必要になる、ということだろう。
「脳死」を「人の死」と法律で決めたがるのも、年齢制限をできるだけ低くしようとする動きも、すべて「ドナーの必要」という結論が先にある。
しかし、ドナー拡大の法案が仮に可決されたとしても、ドナーが急に増えることはないだろうという意見も出ていた。
なぜなら、心臓停止後に移植できる臓器提供も、それほど増えているわけではないからだ。
アニミズムの時代から、八百万神の神々が宿る世界で生きてきた祖先を持つわれわれの心の奥底の何かが、動いている心臓を取り出すことや、たとえ心臓が止まってしまっても「死」んだ肉親の身体を機械の部品のように扱うことに抵抗を感じる文化を築いてきたのではないか。
それを、遅れた未開の蛮習としか見ない人間が、どんな屁理屈をこじつけようとも《国民の7割》が納得することなどあり得ないだろう。
【関連記事】
2006年4月 7日号「「臓器移植法」改正2法案」
2005年10月21日号「福岡伸一『もう牛を食べても安心か』」
2004年10月16日号「Today 10月16日 「臓器移植法」施行 (1997年)」
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コメント
ご指摘の通り、この問題はどこに「目線」を置くかで全く違った風景になることです。
ご存知の方も多いと思いますが、宗教法人「大本」は移植に反対する立場から、こう述べています。「現代人が科学を妄信し、神の恩恵を忘却するばかりか、自然のリズムを崩し、人間社会や地球環境までも破壊し、人の死も臓器取り換えの手段とするまでになった蒙昧さへの啓蒙のためである。直接的根拠としては大本の根本教典である出口王仁三郎聖師の『霊界物語』に、人の死は心臓の鼓動が完全停止したときであり、心拍がつづく間は霊魂はまだ肉体から分離していないとの教示にもとづいたからである」(「大本」ホームページから)。
この言い分をどう解釈するかは、その人の宗教観、死生観によって違うだろう。だが、「大本」が指摘するのは、科学信仰を万能にして、死を含めた人間存在のあり方に注意を払わない流れに警鐘を呼びかける一文ではあるまいか。
移植医療しか救う道がない患者を前に、せっかくの技術を使うな、というのは残酷に過ぎる。
その一方で、まだ熱い血が流れる人を「脳死=人の死」としてメスを入れていいのか。この人の生存権は、どうなるのか。本当に脳死からの再生はないのか。
哲学的、宗教的、そして医療倫理の面などで、果たして議論は尽くされているのだろうか。哲学者、宗教者の多くは、この問題に躊躇しているようにも思える。「個」としての一人の存在が、他の「個」とどこまで関われるのか。哲学や宗教の「出番」なのに、どうしたことだろう。
海外渡航移植を禁止するのは、当然だろう。臓器売買、死刑囚からの摘出など、ひどい実態も報告されていたからだ。そのために無垢な子どもの移植も出来なくなる、というむごい現実がひきずられてしまった。
以前、徳洲会病院で行われた病気腎移植に対して厚労省やや医師会がヒステリックに反応したことがあった。なぜなのか。医療には、色々な道があっていい。「脳死」以外は認めない、と言わんばかりだったと記憶している。
賢いとは思えない政治に引きずられていいのかな、という思いは消えない。
投稿: hoshi | 2009年6月 5日 14:19
hoshiさん>毎度です。
とうとうA案が衆議院を通過しましたね。
浄土真宗本願寺派も参議院議長宛に要望書を出したと新聞に載っていました。
ご紹介下さった大本教の考え方も、私には普通に理解できます。
国民新党の亀井久興幹事長が棄権したことに関して、「有権者から、人の生死や倫理観、宗教観の判断まで託されているとは思えない」と語ったのは、いちばんまともな国会議員としての判断でしょう。
国会議員の「不作為」などというこれまでさんざん無視してきた言葉を持ち出して賛成票を投じた202名の自民党議員、41名の民主党議員、12名の公明党議員、その他の8名は、「人の死」を一律に法律で規定することの愚かさを一度でも考えたことがあるのでしょうか。
投稿: KAZE | 2009年6月20日 11:40