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2009年5月26日

「禁煙ファシズム」をめぐって

Chronicle

5月23日付『朝日新聞』朝刊のオピニオン「異議あり」に、《たばこが苦手なジャーナリスト斎藤貴男》によるインタビュー記事「お上頼みの禁煙は個人の自由損なう──健康に悪いのは常識。規制はするのも求めるのも疑問」が載っていた。
斎藤貴男という名前は知っていたが、この記事を読むかぎりあまり期待できそうにない。
談話記事なのであまり厳密な要求はするまいと思うが、誤解と見当外れだけならともかく、根拠になっているらしいイデオロギーが貧弱すぎる。

斎藤の主張は、主に2つの点が中心になっている。
(1)たばこを吸うか吸わないかは「個人の自由」であって、《健康に良かろうが悪かろうが、事は自分の肉体の使い方、ということは生き方です》。
(2)政治権力に「規制」を許せば、そこを突破口にしてどんどん他の領域にまで「規制」が広がっていく。

まず(1)の点で斎藤が誤解しているのは、喫煙者の健康のことなど誰も問題にしていないということだ。勝手にすればいい。
問題なのは、煙を吸いたくない人に無理矢理吸わせている現実だけである。
(2)の点はまことにもっともなご意見だが、こういうポリティカリー・コレクトには説得力がない。「これを言っておけば、誰もが恐れ入ってひれ伏すはず」という、水戸黄門の印籠みたいな魂胆が見え透いているのだ。

喩え話を2つほど考えてみた。
まず一つ目。
ラジカセを持った客がレストランに入ってくる。本人は大いに気に入っているらしいが、周りの者には騒音としか思えない音楽を大音量で聴いているとする。
本人は好きな音楽を、好きな場所で聴くのは「個人の自由」であると主張する。「禁音」とはどこにも書いてない、と。
レストランに限ることはない。自分の家で、近所にまで鳴り響く大音量で音楽を聴いている住人を考えても同じだ。
「煙」と「音」にはよく似た共通点がある。おかまいなしに他人の生活に入り込んでくる、ということだ。

二つ目はもう少し違った喩え話。
車でスピードをどれだけ出そうと「個人の自由」だと考えるとどうなるか。
歩行者も他の車もいないサーキット場でなら知ったことではない。勝手にすればいい。
スピードの出し過ぎで事故を起こそうと、命を落とそうと本人の自由である。
だが、公道では「個人の自由」は制限されるし、その根拠は周りの人間の生活や生命を脅かすことになるからだ。

「個人の自由」によって、車にはね飛ばされたり、騒音で夜も眠れないとか、副流煙によって甚大な健康被害を被るなど、自分の意思に反して被害を受けることが問題なのである。
斎藤は《犯罪や伝染病の予防のように、法律や制度で禁じなければならないことと、個人が主体的にやめることとは別です。喫煙の規制は、たばこの苦手な人たちにとっては都合がいいでしょう。でも、ある領域で規制されることを許してしまえば、次は違う領域に踏み込まれてしまわないとも限りません。》という。
「喫煙の規制は、たばこの苦手な人たちにとっては都合がいいでしょう」という言い方も変だ。
車のスピード制限は、交通事故の「苦手な人たちにとっては都合がいいでしょう」とか、騒音の制限は、騒音の「苦手な人たちにとっては都合がいいでしょう」と言うのと同じだ。
誰かにとって「都合がいい」とか「都合が悪い」という言い方で問題をひどく矮小化している。
それに、「犯罪」は「法律」によって禁じられることはかまわないと考えているらしいが、何を「犯罪」とするか、ということに基本的な問題があるのではないのか。
時代によっても、国によっても当然違ってくるだろう。

日本では大騒ぎになる大麻(マリファナ)も違法ではない国もあるし、アルコールを禁じているイスラム教の国や、「禁酒法」時代のアメリカ(今でも州によっては禁じられている)などもあるが、それ以外の多くの国では違法ではない。
習慣性のある「嗜好品」を、どこまで規制するのか、という問題はそれほど単純ではあるまい。
アルコールだって犯罪や暴力、交通事故の原因になりうるし、依存症を生み出したりもしている。
それどころか、酩酊状態だったことが証明されると「心神耗弱」と見なされて、罪が軽くなるという世界でも希有の判例にことかかない日本である。

だからといって、禁止すれば済むという問題でないことは、「禁酒法」がギャングたちに儲けをもたらしたように、例えばタバコを法的に禁止すれば、「裏社会」を肥え太らせることになるだけだろう。
覚醒剤が、暴力団の資金源になったり、戦前の日本にソックリな将軍様を崇める某国の資金源にもなったりするのと同じだ。
私は、タバコも習慣性の強い麻薬の一種と考えたほうが分かりやすいと思っているが、法的に禁止することにはだから反対である。
何度もこのブログの記事にも書いてきたことだが、たばこに関する私の提案は値段を高くすることだ。
1箱2000円くらいがいいのではないか。

日本には「禁煙法」という法律はない。「喫煙場所の制限」があるだけである。
斎藤は、わざとかどうかは知らないが、この二つを混同させている。
それとも、「喫煙場所の制限」をなくせ、とでも主張しているのであろうか。
例えば、路上喫煙を禁じる自治体が増えているが、斎藤はこれもケシカランと思っているのだろうか。
歩行者の服を焦がしたり、子どもの顔(特に目)の高さに800度の熱源を持ち歩くことを、喫煙者が止めない以上法的に制限するしかないのは当たり前のことだと私などは思うのだが。

インタビューの聞き手である刀祢館正明解説委員が記事の最後に短いコメントを付している。
《私はたばこの煙が苦手だ。でも残念ながら、これまで「吸っていいか」と聞かれたことがない。飲食店でぷかぷかやっている隣の人に「煙をなんとか」とお願いしたら、「ここは禁煙じゃない」とにらまれたこともある。近くに煙の苦手な人がいるかどうかより、禁煙マークがあるかどうかの方が大事らしい。
 もし、喫煙者がもっと早くから周囲に配慮していたら。こんなに禁煙だらけ、規制だらけの世の中にならなかったのでは、と思う。》(全文)
私のように直接斎藤の主張を取り上げてはいないが(インタビュアーとしてのマナーを心得た大変婉曲な表現であろうが)、問題の核心を指摘した適確で十分な批判になっている。

私の場合は、かつて同僚たちとの飲み会などでも「吸っていいか」と必ず訊かれ、自分の意思で参加している以上「どうぞ」と答えてきた。
それでも喫煙者の同僚たちは、私からいちばん遠いテーブルに移ったりして気を遣ってくれた。
だが、そういうマナーは例外的なものであって、大半の喫煙者が傍若無人であることは言を俟たない。
私も一時期(20代の数年)喫煙者であったことがあるのでよく分かるのだが、喫煙者は「非喫煙者の迷惑」など考えたことがないというか想像したこともないのだ。
友人の中にも「非喫煙者」がいたが、「どうして喫煙しないのか不思議」とさえ思っていた。
「気づく」機会を見逃さなければ、喫煙者のマナーももう少しはマシなものになるのかもしれないが、私はアテにしていない。

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2006年8月19日号「内田樹『態度が悪くてすみません──内なる「他者」との出会い』──(1)「喫煙の起源について」
2006年5月16日号「ニコチン依存症は「病気」?
2006年4月28日号「「全面禁煙」から1ヵ月
2006年3月31日号「公共施設内での全面禁煙
2004年7月1日号「Today 7月1日煙草専売制を施行 (1904年)

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